序章:魂への序曲 ― あなたはこの問いかけにいかに向き合いますか
まず、この「堕幸福論」というタイトルを、あなたの心に静かに置いていただきたいと思います。
この言葉は、私たちが日常的に思い描く幸福の理想像(幸福論)に、あえて一度背を向け、精神の深淵へと「堕ちて」いく先にこそ真実の光があるのではないか、という根源的な問いを内包しています。私たちが生きるこの複雑な世界において、教科書に記されたような単純明快な幸福の定義が、どれほどの意味を持つのでしょうか。「人は皆、平等である」「努力は必ず報われる」「信じる心があれば夢は叶う」。これらは美しい言葉ですが、時として、人生の理不尽さや複雑性の前では、あまりにも無力に響くことがあります。
この物語は、そうした社会通念がもたらす欺瞞に対し、静かに、しかし断固として異を唱えます。主人公である間宮真心という青年は、特定の誰かではありません。彼のうちに渦巻く葛藤は、多かれ少なかれ、現代を生きる私たちが内面に抱える矛盾や不安、そしてどこかで救いを求める切実な願いの写し鏡なのです。
本作は、観る者にある種の覚悟を求めます。もしあなたが、安易な感動や予定調和の結末を期待されるのであれば、この物語は少し厳しい試練となるかもしれません。しかし、もしあなたが、ご自身の内なる影の部分と静かに対峙し、偽りのない希望を探求する旅路にお付き合いいただけるのであれば、これほど知的な興奮と魂の救済に満ちた作品はないでしょう。
それでは、ご一緒に幕を開けましょう。客席の灯りが落ち、舞台という名の精神世界がその深淵を現します。これは、遠い誰かの物語ではありません。あなたの心の奥底を映し出す鏡として、その一挙手一投足、一言一句を、どうか真摯に受け止めていただければ幸いです。
第一幕:絶望の淵に射す、一条の光 ― 「壁」と「血」に込められた魂の二律背反
舞台は象徴的な空間です。サーチライトに照らし出されるのは、点在する黒い箱。それはまるで、私たちの意識下に散らばる、整理されざる記憶や感情の断片のようです。そこへ現れる主人公、間宮真心。彼の最初の独白は、この物語全体を貫く、深遠な問いかけから始まります。
「世界を形作る要素に、俺達人間は必要なのか? 地球という生き物からすれば、俺達はただの癌だ。不必要な存在だ。それじゃどうして生きている?」
物語の冒頭から投げかけられる、存在そのものへの根源的な懐疑。自身を、世界にとって不必要な「癌」とまで規定する、その強烈な自己否定。しかし、この問いは同時に、「それでもなお、なぜ私たちは生きているのか」という、消えることのない生への執着をも裏付けています。彼は、この世界の本質を「他人を蹴落とし、追い込み、利用し、自分が幸せになるゲーム」であると喝破します。それは、競争社会の冷徹な現実に対する、あまりにも的確な洞察と言えるでしょう。
彼は、その絶望から逃れるかのように、舞台上の箱で「壁」を築き始めます。これは、非常に象徴的な行為です。傷つきやすい自己を、これ以上世界の残酷さから守るための「防衛の壁」。社会の欺瞞や他者の無理解といったノイズから自らを遮断するための「隔絶の壁」。彼はその壁の内側に、孤独という名の聖域を築こうとするのです。
しかし、その静寂を破り、一人の女性が現れます。片桐苑葉。
彼女は、この暗く絶望的な世界観とはおよそ不釣り合いなほど、純粋で絶対的な肯定の言葉を携えています。
片桐「何をしてもいいの。」片桐「人生は自由なの。」片桐「人は誰でも、幸せになる権利がある」
間宮の絶望に満ちた独白とは、まさに対極に位置するこれらの言葉。自由、権利、希望。あまりにも眩しく、絶対的であるがゆえに、間宮は「誰だ?」と問うことしかできません。それは、彼がとうの昔に失ってしまった、あるいは信じることを放棄してしまった概念そのものが、人間の姿をとって彼の前に現れたかのような邂逅だったからです。
しかし、この物語の深淵は、単純な「絶望と希望の対立」という構図を許しません。次の瞬間、片桐がとる行動は、私たちの倫理観を揺さぶり、物語の深層へと引きずり込みます。彼女は、ナイフで自らの腕をためらいなく突き刺すのです。
片桐「なんで赤いの?意味わかんない。全部あげる。あなたにあげる。私の身体に流れているこの汚水を吸い上げて?私の体を綺麗にして?」
これは、息を呑むほどに衝撃的なシーンです。希望の象徴であるはずの彼女が、自らの生命の証左である「赤い血」を「汚水」と呼び、それを忌むべきものとして否定する。一体、これは何を意味するのでしょうか。
これは、間宮の魂の深層で起こっている、深刻な自己矛盾の具現化に他なりません。彼の心の中には、片桐が象徴するような「純粋な希望」や「無条件に愛されたいという願い」が、確かに存在しています。しかし、その純粋な願いすらも、彼の心に深く根差した自己嫌悪によって、「汚れている」「価値がない」と断罪されてしまっているのです。「幸せになりたい」と切に願いながらも、その実、自分は幸せになる資格のない汚れた存在なのだと、心の奥底で信じて疑わない。この引き裂かれた二律背反こそが、間宮真心の苦悩の本質と言えるでしょう。
希望の化身が、自らを「穢れ」と叫ぶ。この強烈な逆説は、本作が単なる感傷的なヒューマンドラマではなく、人間の精神が内包する最も複雑で、最も痛切な矛盾の核心を、容赦なく描き出す、本格的な心理劇であることを、私たち観客に静かに、しかしはっきりと告げているのです。
第二幕:「資格」を問われる魂 ― 社会という名の壁と、集合的無意識の悲劇
間宮と片桐が、破壊と再生の入り混じった歪な形で結びつこうとした、その刹那。舞台の空気を一変させる、新たな人物が登場します。天羽朝則。彼の存在は、この物語が内包する謎と深淵を、一気に拡大させる触媒となります。
天羽「赤はあかん、白にしろ。」
彼の最初の言葉は、唐突な命令です。生命の躍動を象徴する「赤」を否定し、純粋無垢、あるいは死を想起させる「白」を強要する。この男の正体は何なのでしょう。神なのか、悪魔なのか。あるいは、間宮の分裂した精神を分析し、治療を施す精神科医のような、超越的な視座を持つ存在なのでしょうか。彼の言葉は、常に的確に本質を射抜き、間宮が目を背けたいと願う現実を、冷徹なまでに突きつけてきます。
天羽は、この物語を貫く、もう一つの極めて重要な主題を提示します。それは**「資格」**という概念です。
天羽「お前に人を愛する資格はあるのか?」片桐「人を愛することに資格が必要?大切なのは覚悟では?」天羽「昔はそうだった。だが、今のこの世界では、資格が必要なのだ。」
「覚悟」さえあれば誰もが人を愛することができるはずだ、と信じたい片桐の純粋さに対し、天羽は冷徹に「資格が必要だ」と断言します。この対話は、現代社会が内包する息苦しさの本質を、鋭くえぐり出しています。私たちは社会生活のあらゆる局面で、何者かであること、何らかの成果を上げていることを求められます。愛し、愛されるという、本来最も根源的であるはずの人間的営みにさえ、学歴、収入、社会的地位といった、目に見える「資格」が問われるかのような感覚。天羽は、その社会の非情なルールそのものを体現する存在のようにも見えます。
そして、その社会の構造を象徴するかのように、舞台には「群衆」が出現します。彼らは、個々の顔を持たない集合体として、叫びながら、走りながら、再び「壁」を築き始めます。間宮が自己防衛のために築いた壁とは、その性質を異にします。これは、異質な他者を排除し、個人の自由な思考を奪い、社会通念という名の檻に人々を閉じ込める、「同調圧力の壁」です。
群衆「助けて下さい。」群衆「ここから出して下さい。」群衆「そんなところで見てないで手伝ってよ。」
彼らの言葉は、深刻な自己矛盾をはらんでいます。彼らは助けを求めながら、その実、自らが他者を孤立させる壁の構築に加担しているという事実に、全く無自覚なのです。助けを求める声は、やがて他者への「早くしろ」という苛立ちを伴う命令へと変貌します。これは、被害者意識が、いかに容易に加害者意識へと転化しうるかという、人間の心理の危うさを見事に描き出しています。
天羽は、そんな群衆が作る壁を、まるで取るに足らないもののように破壊します。「終わらない終わりがない地獄、修羅」と静かに呟きながら。そして、彼らが壁を築く動機そのものを、こう断罪するのです。
天羽「幸せを求める事、孤独に抗う事。」
なんと痛烈な逆説でしょう。人々が幸福を求め、孤独から逃れようとすればするほど、結果として他者と自己とを隔てる新たな壁を築き、自ら地獄を生み出してしまう。この世界の構造的な欠陥を、天羽の視点は冷徹に見抜いています。
この地獄絵図のような光景の中で、間宮の心に、ある変化が生じます。彼は、群衆が必死に壁を築く様を、当初は嘲笑をもって眺めています。しかし、天羽がその壁を破壊し、群衆が傷つき倒れ、それでもなお壁を再建しようとする姿を目にするうち、彼は自らも、その壁の破壊の行為に参加し始めるのです。
これは、彼の内なる世界で起きた、パラダイムシフトの瞬間です。
第一幕において、彼は世界から自らを守るために「壁」を築きました。しかし今、彼は、自分自身と他者を縛り付けている社会という名の「壁」を、自らの意志で破壊しようとしています。これは、彼が自己の殻を破り、再び世界と対峙しようとする、ささやかですが決定的な一歩と言えるでしょう。彼はもはや、単なる被害者意識に浸る存在ではありません。この世界の不条理に抗い、現実に関与しようとする、一人の「当事者」へと変貌を遂げたのです。
しかし、この物語は、そのような単純な成長物語の枠組みに安住することを許しません。
彼の前に、彼の「過去」が、人間の姿をとって立ちはだかるのです。友人であるはずの碓氷、有馬、そして青井。彼らが突きつけてきたのは、間宮の記憶の奥深くに封印されていた、罪の象徴的存在。すなわち、中村美海との過去です。
彼らが暴露する、中村美海が間宮の子を宿した結果、退学せざるを得なかったという「噂」。この暴露は、間宮を再び絶望の淵へと突き落とします。なぜなら、これこそが、彼が「人を愛する資格」を根源から問われることになる、原罪とも言うべき出来事だったからです。
信じていた友人からの裏切り、封印していた過去の罪の露呈、そして愛する恋人であったはずの青井からの拒絶。その全てが、彼という存在を根底から揺るがします。これは、もはや単なる人間関係の縺れなどという生易しいものではありません。彼の精神世界の中で、分裂していた様々な人格たちが、その器である「間宮真心」という基本人格に対し、一斉に攻撃を開始したのです。それは、これから始まる壮絶な魂の解体ショーの、静かな序曲に他なりませんでした。
第三幕:自己犠牲という名の、甘美な罠 ― 偽りの救世主、その空虚な戴冠式
過去の罪を突きつけられ、愛する者たちから次々と拒絶され、完全な精神的孤立状態に陥った間宮。追いつめられた彼が次に逃避する場所は、自己憐憫の極致であり、最も危険で、最も甘美な罠でした。それは、**「自己犠牲」**という名の、空虚な自己陶酔の世界です。
間宮「全人類の罪を背負った僕が死ぬことによって、この世界に、本当の幸が訪れる。それが僕の生きてきた意味になる。良い事じゃないか。素晴らしい事じゃないか。尊い犠牲になるだけ。」
この傲慢さに満ちた独白に耳を傾けてください。彼は、自らを苛む耐え難い罪悪感から逃れるため、一足飛びに、自らを「被害者」の立場から「救世主」の地位へと引き上げようと試みます。「全人類の罪を背負う」?それはあまりにも壮大な自己欺瞞です。彼は、自分自身のたった一つの罪からさえ、目を背け続けているというのに。
この瞬間、舞台に荘厳に流れ始めるのは、なんと**「讃美歌」**です。そして、彼以外の全ての登場人物たちが、彼のもとに跪き、祈りを捧げ始めるのです。これは、この演劇の中でも、極めて痛烈で、悪意に満ちた演出と言えるでしょう。彼が演じようとしている自己犠牲が、神聖な行為とは程遠い、単なる自己満足の極致、空虚な精神的マスターベーションに過ぎないことを、舞台装置そのものが冷ややかに嘲笑しているのです。
彼は、自らが死ぬことで世界が救済されるという、その壮大な物語に完全に酔いしれます。自らが処刑されるための「壁」が築かれていく様を、「頑張れ、みんな頑張れ」と声援まで送る始末。これは、現実からの完全な逃避です。自らが抱える問題と真摯に向き合うという苦役を完全に放棄し、「尊い犠牲」という甘美なファンタジーの世界に閉じこもることで、彼は束の間の精神的安寧を得ようとしているのです。
しかし、彼のその脆弱で甘美な幻想を、あの男が許すはずがありません。
雷鳴が轟くと共に、舞台に再び舞い戻る天羽朝則。彼の手には聖書が握られていますが、それは祝福のためではなく、その権威を粉砕するためにあるのです。
天羽「神様にでもなったつもりか?」間宮「つもり?」天羽「お前が否定し、非難していた神に。目を覚ませ、受け入れろ。現実を。」
天羽の言葉は、間宮が纏った自己陶酔の薄いメッキを、無慈悲に一枚一枚剥がしていきます。「あの女は死んだ」と、彼が救おうとしていたはずの存在の死を突きつけ、「お前が神なら、蘇らせてみろ。奇跡を起こしてみろ」と、彼の無力さを徹底的に暴露します。
天羽は、間宮の精神構造の根幹にある「ご都合主義」を喝破します。自分に都合の良いように物語を再解釈し、自らを悲劇のヒーローや栄光ある救世主へと仕立て上げてしまう、その精神の脆弱性。天羽の鋭い視線は、その全てを見抜いているのです。
そして、この偽りの救済劇は、最悪の形でクライマックスを迎えます。
間宮に祈りを捧げていたはずの群衆が、天羽の言葉に扇動され、次々と彼から離反していくのです。ついさっきまで彼を救世主として崇めていたはずの者たちが、今度は一転して彼を否定し、天羽の側へと流れていく。信頼は脆くも裏切られ、彼が拠り所としていた信仰は、砂上の楼閣のように崩れ去ります。
希望へと続くと思われた梯子は、彼の足元から無情にも外されました。
彼は救世主ではありませんでした。それどころか、誰からも見捨てられた、ただ一人の哀れな人間に過ぎなかったのです。全ての拠り所を失った間宮は、再び轟く雷鳴と共に、舞台に崩れ落ちます。偽りの神は、そのささやかな玉座から、無残に引きずり下ろされたのでした。
この第三幕が描き出すのは、人間が精神的に追いつめられた時に陥りがちな、極めて危険な心理の罠です。自らが抱える罪や無力さと向き合うという、本来避けては通れない苦痛から逃れるため、自分を「特別な存在」であると思い込もうとする自己防衛機制。「自分は誰よりも不幸だ」「この苦しみは自分にしか分からない」という、いわゆる悲劇のヒロイン気取りもまた、この偽りの救世主願望の、小さな変種に他なりません。
この物語は、私たちの心の中に潜む、そうした弱さや欺瞞を、容赦なく白日の下に晒します。そして、私たちに静かに、しかし厳しく突きつけるのです。真の救済は、そのような安易な自己陶酔の中には、決して存在しない、と。
第四幕:魂の解体、そして再構築への試練 ― 内なる人格たちによる、峻烈な弾劾
偽りの神の座から引きずり下ろされ、もはや精神的な逃げ場を失った間宮。ここから始まるのは、この物語のクライマックスであり、最も過酷な試練の場面です。彼の精神世界に存在していた全ての人格たちが、その器である基本人格としての彼一人に対し、一斉に牙を剥く、壮絶な**「魂の解体ショー」**です。
舞台は、さながら彼の内なる法廷と化します。
かつての恋人、友人、そして顔も知らない群衆までもが、検事のように次々と立ち上がり、彼を断罪します。彼らが発する言葉は、もはや単なる非難ではありません。それは、間宮自身の心の最も深い場所から響いてくる、自己否定と自己嫌悪の絶叫そのものなのです。
碓氷「そいつ悪いやつだぞ?」青井「バカな女。そんな奴のどこがいいの?」中村「貴方も使い捨てにされるのに。」椎葉「幸福論なんて意味がなかった。」
彼らは、間宮を救おうとする最後の希望の光、片桐苑葉に向かって、口々に彼を貶めます。しかし、その言葉の刃は、巡り巡って間宮自身の胸を最も深くえぐっていくのです。「お前は誰のことも幸せにできない、価値のない人間だ」「お前が信じてきた哲学や希望は、全て無意味だった」——それは、彼が人生を通じてずっと自分自身に囁き続けてきた、呪いの言葉のこだまに他なりません。
そして、その峻烈な断罪の輪は、ついに彼の存在そのものへと及んでいきます。
全員「生まれてきた事だよ。」間宮「そうだね。ごめんなさい。生まれてきてしまって。」中村「あんたの両親も可哀想だよね。」青井「あんたみたいなゴミが生まれちゃって。」
それはまさに、精神的な地獄絵図と言えるでしょう。
彼の存在そのものが「罪」であると断罪されるのです。友人であったはずの者たちは、彼がこの世に生を受けたこと自体を「こどもガチャ失敗」と嘲笑います。このシーンは、観る者の心にも深い痛みを残すはずです。なぜなら、これは多かれ少なかれ、誰もが心のどこかで抱いたことのある、根源的な不安を刺激するからです。「自分は本当に、この世界に生まれてきてよかったのだろうか?」という、魂の根源からの問い。その問いに対し、舞台上の全ての人格たちは、満場一致で「NO」という残酷な答えを突きつけるのです。
耳を塞ぎ、「聞きたくない」と叫ぶ間宮。しかし、天羽はその耳をこじ開け、彼にその地獄の現実を直視させようとします。この壮絶な精神的リンチは、彼の自己を一度完全に破壊し、解体し尽くすために必要な、通過儀礼なのです。古く、病んだ自己を一度完全に殺し尽くさなければ、新しく健やかな自己は生まれてこない。これは、再生のための破壊、その極致の姿です。
この魂の解体ショーを締めくくるのは、彼が最も信頼し、愛していたはずの人物たちによる、最後の、そして最も残酷な裏切りです。
死んだはずの上杉(かつて間宮を愛していた人格)が、有馬(間宮の友人を装っていた人格)と結婚したと告げます。愛は偽りであり、信頼はただの遊びだった。「オモチャとしては優秀だったよ」と、彼の純粋であったはずの想いは、無残に踏みにじられます。
さらに、結婚を誓い合ったはずの青井までもが、碓氷と共に現れ、彼を嘲笑します。「あんたみたいなウジウジした自分の世界に没頭して、相手の気持ちを感じられない蛆虫みたいな男のところに戻るなんて真平ごめん」と、彼の人間性そのものを全否定するのです。
愛した全ての女性に裏切られ、信じた全ての友人に嘲笑される。
彼は、精神世界の中で、完全に一人になります。彼の内なる世界は、完全に崩壊し、瓦礫の山と化します。
そして、この壮絶な解体の儀式に終止符を打つのは、彼の罪の根源の象徴、中村美海です。彼女(という名の人格)は、間宮に最後の審判を下します。
中村「自分の都合が悪くなったら私に助けを求める。気持ち悪いね、真心。いい気味。ねぇ、今、どんな気分?失望した?絶望した?もっと苦しんで、悲しんで。」
彼女は、間宮が他者をいかに自己の都合の良いように解釈し、利用してきたかを弾劾します。そして、彼が今まで他者に与えてきた苦しみを、今度は彼自身が味わうがいいと、呪いにも似た言葉を吐きかけるのです。
この第四幕は、観客にとっても決して心地よい体験ではありません。あまりにも救いがなく、あまりにも残酷です。しかし、これこそが、一人の人間が真に自己と向き合うというプロセスの、偽りのない姿なのです。自分の中に存在する醜さ、弱さ、欺瞞、そして罪。それら全てを、一度、白日の下に引きずり出し、その痛みと醜悪さを直視するという苦行を経なければ、人は決してその先へ進むことはできないのです。
この魂の解体ショーは、間宮真心を絶望のどん底の、さらにその底へと叩き落とします。彼の意識は混濁し、もはや自分が誰で、ここがどこで、何をしているのかさえ判別できなくなります。自己の完全な崩壊。アイデンティティの完全な喪失。
舞台は、絶対的な暗闇と、完全な沈黙に包まれます。
しかし、どうか思い出してください。最も強い光は、最も深い闇の中からこそ生まれるのです。
終章:ゼロからの創生 ― そして未来へと響き渡る、希望の産声
暗闇。そして沈黙。
壮絶を極めた魂の解体ショーが終わりを告げ、舞台には完全なる虚無が広がっています。間宮真心という人間を構成していた、怒り、悲しみ、希望、絶望、その全ての感情が消え去り、彼の精神は、まるで嵐が過ぎ去った後の、静かな更地のようです。
その静寂の中に、再び彼女が現れます。片桐苑葉。
まるで、全ての物語が始まる、そのずっと以前のように、彼女は静かに彼に語りかけます。
記憶を失い、自己を見失った間宮は、目の前にいる彼女が誰なのかさえ認識できません。
間宮「君は誰なんだ?」片桐「私は苑葉。片桐苑葉。よろしくね。」
この短い言葉の応酬に、どれほどの切なさと、どれほどの美しさが込められていることでしょう。
二人の間にあった関係性は、一度、完全に死を迎えたのです。彼が彼女と共に過ごした幸福な記憶も、彼が彼女に対して抱いていた複雑な感情も、全ては精神の瓦礫と共に消え去りました。エピローグで片桐自身が「彼と私が過ごした記憶も消えてしまう。…私は、彼が生きてくれればそれで良かった」と語る、その悲痛な覚悟が、この瞬間、現実のものとなったのです。
しかし、彼女は絶望しません。
二人の関係性は、ゼロ地点に戻りました。しかし、それは終わりを意味するのではなく、新たな始まりの可能性を意味します。ゼロだからこそ、何のしがらみもなく、もう一度、新しい関係性を紡いでいくことができるのです。
片桐「またここから始めよう。」間宮「何を?」片桐「私たちの人生を」
これこそが、この物語が提示する、究極の救済の形です。
過去の罪も、癒えぬトラウマも、複雑に絡み合った人間関係も、その全てを一度リセットし、もう一度、純粋な関係性の中から「人生」を始めていく。それは決して現実からの逃避ではありません。壮絶な自己との対決を生き抜き、一度完全に死んだからこそ彼に許された、再生への特権なのです。
彼は、彼女に問います。「僕でいいの?」と。
彼女は、力強く、そして優しく答えます。「貴方がいいの。」と。
かつて、彼の魂が分裂していた時、彼の中に存在した何人もの人格が、片桐を、あるいは他の女性を求めました。しかし、それらは全て、自己の欠落感を埋めるための、どこか利己的な愛でした。しかし今、この瞬間、空っぽの器となった間宮と、彼の全てを受け入れた片桐との間に交わされる言葉は、最も純粋で、最も本質的な、魂の結びつきの約束に他なりません。
そして、二人が手を取り合い、未来へと一歩を踏み出そうとした、その時。
舞台に、一つの音が響き渡ります。
SE「赤ちゃんの鳴き声」
この音。これこそが、この物語がたどり着いた、全ての結論です。
この音は、あまりにも豊かで、多層的な意味を内包しています。
一つは、文字通り**「新しい生命」の誕生です。それは、間宮と片桐の、これから始まる新しい人生を祝福する、これ以上ないほど力強いファンファーレと言えるでしょう。
一つは、「希望」そのものの象徴です。絶望の淵の、さらにその底で、全てが終わったかのように見えた世界に、力強い生命の叫びが響き渡る。これ以上の希望の顕現があるでしょうか。
そしてもう一つ、最も重要で感動的な意味は、「罪の赦しと未来の肯定」**です。
どうか思い出してください。この物語の全ての始まりは、間宮が、かつての中村美海との間にできた子供、すなわち新しい生命の誕生を、祝福ではなく「罰」として受け取ってしまった「罪」にありました。その罪悪感が、彼の魂を蝕み、彼の世界を歪めてしまったのです。
その物語の終わりに、新しい生命の産声が響き渡るということは、彼が過去の罪からついに解放され、今度こそ、新しい命の誕生を、そして未来そのものを、祝福をもって受け入れる準備ができたことを意味しています。かつて彼が否定してしまった生命の輝きを、今、彼は全身全霊で肯定する。これこそが、彼にとっての、真の「魂の救済」なのです。
彼は、偽りの救世主になることでは救われませんでした。彼は、全人類の罪を背負うという壮大な自己欺瞞によっても救われませんでした。
彼が真に救われたのは、全てを失い、空っぽになり、そして、たった一人の人間との間に、新しい関係性を、新しい人生を、ゼロから始めるという、静かで、しかし揺るぎない「覚悟」を決めたからなのです。
「堕幸福論」。
それは、真の幸福に至るために、一度、既成概念としての幸福を破壊する物語。
それは、本当の自分自身であるために、一度、偽りの自己を解体する物語。
それは、揺るぎない光を見出すために、一度、底知れぬ暗黒の淵まで堕ちていく物語です。
この深遠なる思索の旅を終えた今、あなたの心には、何が残りましたでしょうか。
ただただ重く、救いのない物語だと感じられたでしょうか。
それとも、ご自身の心の中に存在する間宮真心と対話し、その魂の遍歴に共感し、最後の希望の産声に、静かな、しかし確かな感動を覚えていただけたでしょうか。
その答えは、あなたの中にしかありません。
しかし、一つだけ確かなことがあります。この物語に真摯に向き合ってくださったあなたは、もはや、この旅を始める前のあなたではいられないはずです。あなたの心の中にもきっと、何か新しい思考が、新しい感情が、産声を上げていることでしょう。
さあ、顔を上げてください。劇場の外には、あなたの日常が続いています。
あなたの人生という名の、次の舞台の幕は、もう、静かに上がっているのですから。
