稽古日誌

【稽古日誌】2021/6/27 喜多健介/容原静

新しい雫が掌に載った。私は雫を吟味して、どう捌くか考えなければならない。
ある時期から僕が運搬に携わっている公演の第三稿に巡り合う。私は脚本を如何にして次へ運ぶのか考える。
より良く、素晴らしく。我々がやるという最大限の効果を考える。これは良い脚本だ。そのまま運びたい。何より演出したい。手をつけざるべきか。
しかし何かが出来そうだ。胸が轟いている。動け。気づけ。思え。果ていうことは簡単だが、時間も限られているぞ。
少し思い浮かんだ。このままに少し脚色。一つ要素を加える。どちらが面白いか、素晴らしいか。それはわからない。しかしやってみる価値がある。いざ、挑戦しかない。
この脚本はいかにも脚色出来そうで非常に愉快だ。我々が一人一人が如何にして生きるか。箱に収まらずして、箱を形成できるか。全員の想像を超えて飛躍する舞台を作りたい。我々はちっぽけだが、偉大なのだから。
稽古前に色々と練った策略に沿って行動。やることが急に増えた。継続こそ力なりである。やっていこう。
アップの時間はいつもの半分ぐらい。声、体幹。大き過ぎる声は出せるが、それより下では安定して出せないので出せるように日々声を出している。セリフを連続で話すとどうしても詰まるのですらすらいけるように注意している。あと出しにくいであったり、出しづらい故に他の部分で出してるように見える出し方をしているので、出来ない自分に立ち帰りその上で声を鍛錬する姿勢をつくりあげることも意識している。体幹は全身の筋力が生き生きと体幹が出来る様にできる限り同じ姿勢で正しいと思われる、力の入れ方が素直な姿勢を心がけている。
マジカルバナナは結構自分に飛んでこない。いつも少し引いた感覚で頭を動かしている。舞台の本番と同じ感覚で挑む心意気。心がける。逃げても何も得はない。最大限の呼吸を心がける。テンポが早いと今自分が何をやっているかわからなくなる。何をやっているかではなく乗ることが大切。空気に乗る。空気の中でやる。その勇気も必要だ。リズム感がないことを言い訳にしない。間違えることや失敗することを恐れない。そんなもの最初からないのだから。
数字飛ばしはあまり全体を見れていない。聞く、流す、見る。一動作をはっきりと行なっていく。自然と流すことを意識しながら。出来なくてもいい。挑戦。考えずしてその場の呼吸で飛ばしていく。止めない。失敗することを恐れない。失敗などない。やっていくことが肝要。
新しい企画の音声を撮る。女性メンバーから三脚に対する手捌きをみてプロ見たいと声が飛ぶが、一応プロであった。それを特別したくてやっていた仕事ではないが、僕の土台として生きている。それは感謝するしかない。音声は椿ちゃんとひかりちゃんに依頼する。二人ともなんの抵抗もなくやってくれた。二人ともそれぞれの対応で自然と朗読してくれた。二人には今後も頼むことになるので、進めていく中で自分なりの朗読スタンスを形成していくだろうなと期待している。和やかに進んだ。
アクションエチュード。自分はいのちゃん、ひかりちゃんとする。演者が撮影しながら行う。撮影側は撮影に手間取る。どのようにアクションするのか捌けない。いのちゃんとのエチュードは集合写真がテーマ。自分のアクションは『招き寄せる』みたいな感じ(忘れた)。相手は、、、。忘れた。自分は言葉を軸に何ができるか、相手がどのように来るか、どう攻めてくるか少しシュミレーションを心がける。そして舞台に於ける深い心情を意識して舞台人としての精神を定位する。その状態で後は自由に動くだけ。全て忘れて、いまその時を捌く、それをできればええが、そこまではできていない。闇中模索。制限時間は1分。僕はいつも面白いものを提示しようと心がけている。他にも色々できるがいつもそのことばかり考えている。状況によっては変化することも視野に入れて良いのかもしれない。なんらかの忌避感。恐れ。不安。それが自然に其処にあるエネルギーを捌くことに気が向いてない。自分はしっかりと舞台に立っていると言う強い立場の理解をもう少し進めるべきだ。自分のサイズに気が向いていない。どのようにして構成し、力を提示するか。どのように引くか、相手と状況とコミュニケーションをとるか。舞台にあがるまで、まだまだできることがある。一つ目のエチュードはアクションの大きな手がかりを見つけられず、様子を見ながら思い浮かんだ策を行使しながら進める。自分に余裕がない。胸中と言葉で芝居をしている。全身と相手と状況で芝居をしたい。相手がどういう人かもわかっていない。ただなんとかアクションのテーマに食らいつこうとする。自分の中にないのだ。ならば、どのようにして向き合うか、何をしていきたいのか。楽しい。芝居は楽しい。その気持ちとリンクする、或いは絡めさせるにはどのようにすれば。挑戦だ。戦いだ。解き放て、想いを。立場を理解せよ。尺の中で話を収められなかった。最初から脚本を如何に頭に入れて、進めるか。いや、もしかしたら進み方が変なのかもしれない。もう少し進められるやり方があるのかもしれない。日々見て学んで感じて思うしかない。二つ目のエチュードは溺愛する、かかとだった。ひかりちゃんは僕のかかとだよと話しかけてきた。さて如何にして捌くか。私側からのアクションは提示できなかった。動くことに勇気を持つべきだ。あるのだ簡単な動作は。それから逃げるな。表現しろ。心の中に溺愛するがあるままだった。如何にして周りから見えているか。そのことも考えるべきだ。
ダンスの稽古。ダンスは少しやっていたこともあり、覚えさえすればいけそうやなーって思った。余裕ぶってます。
シーン稽古。何回もやりながら自分に何ができるか探る。ピエロのような奇術師のような役割。瞬発的にしか出ないからこそ、繋ぎ方次第で芝居は大きく変化する。私たちは何をしたいのか。私は何を表現するのか。常に頭を回して、感じながら攻撃方法を考える。もっともっとスケールを大きくしながら、単純にシナリオを進めていければと思う。やり方も偏っている。自分が思っている以上に攻められる。攻めの喜多である。自分に負けるな。
通しの稽古。昨日は暴れまくったので、今日は出来る限り抑える気持ち。しかし抑えて死んでは意味がない自分。私が何をするのか。何をしたいか。いろいろな方策を提示する。台本にほど近い芝居だったように思う。今回感じたことは芝居の時間を大きく行使している役者に対して私の比率は限りなく小さく、それ以上無駄なエネルギーは決して与えられないだろうなと感じた。適切に最大限、時にはそれを超えて繋いでいく。僕の役はキャッチボールをする。芝居はキャッチボール。今あるものを捌いたか。自分の思い込みの向こうに芝居の原石は眠っている。そいつを早く捌けるようにならなあかんなって思う。数字は三人。池田さんとはじめてやる。自分は結構山崎さんとの関係に甘えて芝居をしていた。人見知り。わからないものに手を出さない。普段の性格が自分の中ででいる。いや、最近の稽古のダメ出しを聴くと、舞台役者として舞台に立っている際の結果の矛先は演出に向かねばならない。私は演出家を見ていないのだ。演出家に託してないのだ。託せ。其処にある素直な想いを。まだまだ反省なのだ。実際どうなのかに合わせて反省しなければ。挑戦だ。うおー。
演出家の立場もあるため、通しを見ながら、この作品は何がテーマか、何にエネルギーがあるのか感じとろうとした。お客は人生において限り少ない時間で直接的にみたいぜっ!ではない芝居を見た、或いは聞いた、触れた時に何を感じるのか。そんなの知るか。自分はただやるべきことやるだけだ。それを見てくれ! イエス。
終わった後に椿ちゃんがダンスを踊る。心が動きそうなダンス。ずっと見ていたかった。