稽古日誌

「お前のいい芝居、どうでもええ」

稽古場に、演出家の厳しい声が響く。

「お前のいい芝居どうでもええもん。俺は全体のセッションが見たいだけ」

この一言は、劇団天文座の稽古場で実際に飛び交った言葉だ。一見すると冷たく聞こえるかもしれない。だが、この言葉の中に、プロフェッショナルな舞台芸術——そして、あらゆる創造的なチームワーク——の本質が隠されている。

なぜ「うまい俳優」だけでは舞台は成立しないのか

あなたがコンサートに行ったとき、こんな経験はないだろうか。

技術的には完璧なのに、なぜか心に響かない演奏。一方で、多少のミスがあっても、メンバー同士が息を合わせ、観客を巻き込んでいく、あの高揚感——。

演劇も、まったく同じだ。

劇団天文座の指導者が稽古で最も重視するのは、**「セッション感」**である。これは、個々の俳優が「うまい演技」をすることではなく、全員が一つのバンドとして調和し、反応し合うことを意味する。

「個々の役者が自分の頭の中のリズムで勝手に演奏していたら、全体はぐちゃぐちゃになる。相手の音をよく聞いて、自分の演奏を合わせる。それができなければ、観客は『録音を聞いている気分』になってしまう」

ライブ感の喪失——それは、どんなに技術が高くても避けられない失敗だ。

舞台の上で最も大切な言葉:「イエス」

セッションを成立させるために不可欠なのが、**相手への「イエス」**だ。

これは、相手の言動を受け入れ、肯定し、そこから次の展開を生み出す姿勢を指す。インプロビゼーション(即興演劇)の世界では有名な原則だが、台本のある演劇でも同じことが言える。

「イエスができないと、芝居が展開しない」

指導者はそう断言する。

想像してみてほしい。相手が投げたボールを、受け取らずに落としてしまったら? 会話は途切れ、場の空気は凍りつく。舞台上でも、相手のアクションに対してリアクションが遅れる、あるいは拒絶してしまうと、物語は停滞する。

だからこそ、俳優には「見て(ルック)」「聞く(リッスン)」という能動的な姿勢が求められる。単に「見えている(シー)」「聞こえている(ヒア)」だけでは不十分なのだ。

すべての行動には「意図」がある——理由なく動くな

稽古場で繰り返された、もう一つの厳しい言葉がある。

「理由なく動くのをやめて」

舞台上のすべての動作——立つ、座る、振り返る、視線を外す——には、明確な意図が必要だ。なぜなら、俳優の一つひとつの行動が、**相手に与える選択肢(手札)**を変えるからだ。

「行動することで一度経験する。それが次の選択肢を増やす。自分のアクションが変われば、相手のアクションも変わることを意識しろ」

これは、演劇だけの話ではない。

ビジネスの交渉でも、プレゼンテーションでも、日常の会話でも、私たちの行動一つひとつが、相手の反応を左右する。意図のない行動は、相手を混乱させ、コミュニケーションの質を下げてしまう。

稽古場は「発表会」ではない——準備の徹底

そして、指導者が最も厳しく指摘したのが、事前準備の欠如だった。

「稽古の場は、家で考えてきたものの発表会じゃねえぞ」

この言葉の意味は深い。稽古場は、準備したものを試す場であり、その場でゼロから考える場ではない、ということだ。

具体的には、以下のような準備が求められる:

  • 脚本の「ユニット分け」:相手のセリフの意味の塊を理解する
  • セリフの対象の明確化:誰に向かって話すのか(観客? 自分? 相手?)
  • 行動の目的:なぜその動きをするのか

「グレイモンぐらいあるから、メタルグレイモンほしい」

指導者はこう言って、現状に満足せず、常に進化することを求める。一人ひとりのレベルアップが、劇団全体のクオリティを底上げするからだ。

モノローグとダイヤローグ——セリフの「向き」を意識する

もう一つ、興味深い技術がある。それが、モノローグとダイヤローグの使い分けだ。

  • モノローグ(1番):自分自身、または観客に向けた語りかけ
  • ダイヤローグ(2番):相手との対話

「モノローグばかりで喋っていると、芝居の展開が止まる」

これは、会話においても同じだ。自分の世界に閉じこもり、独り言のように話していては、対話は生まれない。相手に向かって、相手の反応を引き出すように話すことで、初めて会話が動き出す。

さらに、セリフを「途中で切らずに伸ばす」ことも重要だという。セリフを途中で切ると、相手は反応のタイミングを掴めない。相手に選択肢を与えるためには、言葉を投げ続ける必要があるのだ。

聞き方が変われば、話し方が変わる

稽古中、興味深い実験が行われた。

観客役の反応を変えたとき、話す側の気持ちや話し方がどう変化するか——。

結果は明白だった。聞き方が変わると、話し方も変わる

観客が真剣に耳を傾けると、話す側は「しっかり喋ろう」という意識が生まれ、自然と声のトーンや表情が変わる。逆に、聞き手が無関心だと、話す側のモチベーションも下がってしまう。

これは、私たちの日常にも当てはまる。誰かの話を聞くとき、本当に「聞いている」だろうか? スマホを見ながら、上の空で相槌を打っていないだろうか?

能動的に聞くこと——それが、相手の最高のパフォーマンスを引き出す鍵なのだ。

演劇から学ぶ、人生とチームワークの本質

劇団天文座の稽古場から見えてくるのは、演劇という芸術の奥深さだけではない。

それは、あらゆる創造的な協働作業の本質でもある。

  • 個人の才能よりも、全体の調和
  • 自己表現よりも、相互作用
  • 完璧な準備と、柔軟な対応
  • 相手を受け入れる「イエス」の精神

これらは、ビジネスチーム、スポーツチーム、家族、友人関係——あらゆる人間関係に応用できる原則だ。

「一人一人が譜面を完璧に覚えるだけでなく、お互いの呼吸を聞きながら即興でアンサンブルを完成させる」

それは、まさに人生そのものではないだろうか。


次にあなたが誰かと会話をするとき、ぜひ思い出してほしい。

「今、私は相手の音を聞いているだろうか?」
「今、私は相手に『イエス』と言えているだろうか?」
「今、私は意図を持って行動しているだろうか?」

舞台の上でも、人生の舞台でも、最高のパフォーマンスはセッションから生まれる。