稽古日誌

見えない雨に、濡れてみる ——劇団天文座の稽古場から

稽古場に、椅子がひとつと、脚立がひとつ。それだけの”舞台”に、俳優たちが立つ。

第43回公演「雀色時、辻の向こうへ」——生者と死者が、夕暮れの辻ですれ違うような物語だ。台本はまだ完全には入っていない。うろ覚えのセリフのまま、それでも彼らは場に飛び込んでいく。この日の稽古は、天文座という劇団の面白さを、いつも以上に濃く見せてくれた。

五感で、その場に立つ

天文座の稽古では、シーンが終わるたびに、こんな問いが飛び交う。「今、五感のどこを使ってた?」

降ってもいない雨を、ある俳優は最初”手ざわり”で感じ取っていた。どこにあるのか、指先で探るように。二度目は”音”で捉えた——ザーザーなのか、それとも少し粘り気のある雨なのか。感じ取ったものは、そのまま声の距離や身体の置き方になって出てくる。セリフを”読んで”いるのではなく、その場で起きていることに反応している。だから、思わずオノマトペがこぼれる。「チクチク」と。

見ている側も、ただ感想を言わない。「一回目は視覚に頼っていた気がする。二人の目が合っている時間がやたら長かったから」。「二回目はほとんど目が合っていなかった。きっと聴覚や触覚を頼りにしていたんだと思う」。演技を、五感という解像度で読み解いていく。この観察の細やかさが、天文座の空気だ。

台本を、手放す

うろ覚えのまま演じることには、理由がある。

紙の台本を握っていると、それが”邪魔”になる。手放してしまえば、その分だけ相手役を深く吸収できる。もちろんセリフは飛ぶし、順番も入れ替わる。けれど、見ている全員が台本を知っているのに、「いつもと違う」ことが気にならないくらい面白い。嘘のない芝居は、多少の言い間違いを軽々と越えていく。

「間違えたら、少し前から遡る戦法でいく」。そんな軽口さえ、この稽古場では挑戦をうながす合図になる。

「ごめんな」を、どう訳すか

天文座には、セリフをいったん頭の中で英語に翻訳してから発する俳優がいる。この日、その回路がひとつの発見を生んだ。

「ごめんな」を、いつもの “Sorry” ではなく “my sin”——私の罪、と訳した瞬間、謝罪が外へ向かうのではなく、内側の罪悪感へと折り返した。同じ一言が、まるで別の感情になる。言語を乗り換えることは、言葉の裏にある本当の気持ち(サブテキスト)を掘り当てる、いちばん速い方法のひとつなのだ。

椅子ひとつの、豊かさ

舞台には椅子と脚立だけ。豪華なセットはない。これは予算や時間の問題ではなく、演出家のはっきりした好みだ。「貧しい演劇が好きなんです。それが、俳優が一番伸びる場所だから」。

セットが何もかも用意してくれる商業演劇とは逆に、ここでは俳優が、想像の世界を自分で”置き”、その想像から刺激(アフォーダンス)を受け取らなければならない。難しい。けれど、それができるようになったとき、芝居は一気に豊かになる。

この日の白眉は、”くれくれ坊主”という手作りの人形を、亡き人に見立てたことだった。手元の人形はすぐそこにあるのに、そこから聞こえてくる”あの人の声”は、はるか遠くに感じられる。誰かに指示されたわけではない、俳優自身が見つけたアイデアだった。

相手に、飲み込まれる

上手い俳優と組むと、経験が浅くても上手く見える。それは、相手に”没入させられて”いるからだ。

ある俳優の没入の深さに、周りがぐいぐい引きずり込まれていく。演出家は、そこで少し怖い問いを置く。「今のいい演技は、あなたが積んできたものなのか、それとも相手役の実力なのか」。知名度が先行する主役が、達者な脇役たちに囲まれて上手く”見えて”しまう——そういうことは、現実の舞台でも起きる。だからこそ、相手をこちらの世界へ引っ張れるか、相手の”没入”をほどけるか。それができて初めて、二人で場を作り、思いがけないもの(創発)が生まれる。

次の階段は、知識でできている

本番まで、まだ一ヶ月。それでも演出家は満足しない。「一ヶ月前でこのレベルなら、まだ上が見たい」。

では、次の一段はどこにあるのか。演出家の答えは”知識”だった。台本と自分の経験だけでは登れない階段がある、と言う。たとえば登場人物が飛び込むのは、どの川なのか。淀川と、澄んだ清流とでは、水温も匂いも棲む生き物もまるで違う。”くれくれ坊主”の伝承、超音波写真が手に入るようになった年代、地域ごとに違う日の長さ、子を持たないことへの土地土地の価値観——脚本に散りばめられた言葉の一つひとつを、調べ、知り、自分のものにしていく。知識が入ると、俳優の想像が具体的になり、その分だけ、客席にも像が見えてくる。

分析の”角度”を変えるのも一手だ。ふだんはスタニスラフスキーの「もしも」で読み解くところを、マイズナーで、グロトフスキーで、アドラーで、チェーホフで、と別のレンズをあてる。すると一つのメモが、二つにも三つにも増えていく。天井は、まだずっと上にある。

足音の消えた稽古場

この日、演出家がふと漏らした。「最近、足音が気にならなくなってきた」。

プロとアマチュアのいちばんの違いは、実は足音だという。余計な力が入っていると、床がドンと鳴る。目的があって歩けば、力は抜け、足は静かになる。「”音を出す”はあるけど、”音が出る”はない」。小さな変化だが、俳優が確かに変わってきた証拠だ。

夏の夕暮れのような物語を、汗をかきながら立ち上げていく稽古場。理詰めで、貪欲で、それでいてやたらと楽しそうだ。見えない雨に濡れ、椅子ひとつの舞台に世界を置き、まだ見ぬ知識で階段を登っていく。

一ヶ月後、彼らがどこまで登っているのか。——それを、劇場でぜひ確かめてほしい。

公演のお知らせ|劇団天文座 第43回公演「雀色時、辻の向こうへ」

フライヤー・キャスト・チケット情報、全公開となりました。

“雀色時(すずめいろどき)”——空が茜から藍へと沈んでいく、あの夕暮れのひととき。辻(つじ)の向こうへ足を踏み出すとき、人は何を思うのか。稽古場で立ち上がりつつあるこの物語を、ぜひ劇場で受け取ってください。

  • 公演名:劇団天文座 第43回公演「雀色時、辻の向こうへ」
  • 作・演出:森本聡生
  • 日程:2026年8月14日(金) 17:30開演(15分前開場)
  • 会場:兵庫県立尼崎青少年創造劇場 ピッコロシアター 中ホール(兵庫県尼崎市南塚口町3-17-8/阪急神戸線・JR宝塚線「塚口」駅より徒歩)
  • 料金:2,000円

出演(役名:出演者)

水原樹:中原瑠偉/水原鈴芽:澤面花宝/水原美空:あさな/桐畑庄司:佐藤大悟/立石直人:岡本明久/松川浩史:前田和彦/沖淳太:古谷陸/渡辺寛大:佐野智康/伊崎千尋:高村悠一/襟川芹香:川村郁実/島岡纏:久保佳寿実/木本友梨奈:上原怜奈

スタッフ

音響:狩野彩花・上田あかり/照明:はるな・山田高廣/制作:大橋唯子

ご予約・お問い合わせ

▶ チケット予約はこちらhttps://trkr.jp/ticket?p=tenmonza43

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